予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」(ダンエアリー)

予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」

予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」

話題になっていたので読んでみた。内容としては面白かったが、この手の物事の見方というのに、それほど新味を感じなかった。影響力の武器
影響力の武器―なぜ、人は動かされるのかを読んだ時の方が感銘を受けた。
本著書も影響力の武器も、人間そのものを見ながら、その行動パターンを類型化するというアプローチなんで、本著から新味を感じなかったのだと思う。ただ、類型化するパターンは、影響力の武器とは異なる視点でパターン化されてるので、その点では良いかなと。

詩学 詩論 (アリストテレース ホラーティウス)

アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)

アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)

この手の古典を読むと、文系領域?的な部分では、紀元前の議論も今日の議論も大して変わらないなという印象を受けることが多々ある。詩学にしても詩論にしても、現代の作家の作品を読む際の切り口として十分に通用する。

天皇陛下の全仕事 (山本雅人)

天皇陛下の全仕事 (講談社現代新書)

天皇陛下の全仕事 (講談社現代新書)

なんとなく興味本位で読んでみたけど、面白かった。
産経記者が書いてるので好意的な書き方なんだろうけど、天皇って人間できてるというか、立派な奴だなとしみじみ。
多忙なのも分かった。ただ、忙しさの質というか、忙殺される中にも雅さを感じる仕事内容だ。

悲望 (小谷野敦)

悲望

悲望


恋愛やジェンダーといった内容よりも、名声と権威を求めつつも夢が破れた男の悲哀みたいなのを強く感じた。ただこれは、著者のブログなどを読んでるから持つ印象かもしれない。作品そのものだけを見るのが正しい読書なのか、それとも作家の背景を踏まえて読むのが正しい読書なのかは知らないが。


権威や人脈を否定し、あくまで問題だけを見ながら言いたいこと言い放題言った結果として、学会から弾き出された著者の恨みというか、後悔というか、そういったものを随所から感じた。
既成の名声や権威を批判し、その一方で批判している対象である名声や権威を求めるというのは若者の性なのだと思う。今、権勢の座にある人物も、既成概念に対して反抗的な青春時代を等しく持っていたはずであり、出世の階段を上るのに十分な程度の頭脳は持っているのである。要する、血気盛んに権威を批判している若者となんら変わりないのである。
ただ、社会で老いていくなかで、一定の処世術を身に着け、気づけば、若かりし頃に自分が批判したはずの老害となっている。世の中というか人生というのは、そういうものなんだろうと思う。そしてそれは健全なことなのだろう。青春の魂を持ち続けながら、安易に迎合せずに戦い続けたままで、歳を重ねるというのは、ある種不健全な老い方なんだと思う。
エッジの効いた思想家が、処世術を身に着け、良くわからない老害となりながら、少しづつ、一歩一歩社会は変わっていく。ラディカルな思想を持ち続けたまま、急激に変化させるようなものは、それは革命であって、平和で持続的な社会というものにはそぐわないのだ。

はてしない物語 (ミヒャエル・エンデ)

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)


心が疲れていたので、「癒し」を求めて手を出してみた。エンデの作品は初めてである。モモも読んだことはない。
私はいつも気になった部分、心に止まった部分のページの端を折りながら読む。
読み終えたあとに、端が追ってあるページだけ流し読み、折っていた部分を戻すページもあれば、前後のページで新たに折ることもある。
このブログの引用は、私がページを追った箇所から引用している。

私は、この本を読んでいるときに、ページを折らなかった。
物語にグイグイ引き込まれたのもあるのだけど、折ってはいけない気がしたからだ。
そして気になった部分を折ることがあまり意味が無いように思えたからだ。
ノウハウや警句などの断片ではなく、はてしない、終わりの無い物語の全体から受ける感覚が大事なのだと思う。

私は一度読んだ書物を2度読む事は滅多にない。
だけど、この本は、また、紐解きたい一冊である。


Amazonのレビューにたくさんあるように、文庫版はお勧めしない。
重厚な単行本で読むこと、それ自体が大切である

徹底抗戦(堀江貴文)

徹底抗戦

徹底抗戦

ライブドア事件に関してはWebの記事も沢山読んだし、この徹底抗戦で出てくるようないわゆるライブドア事件本も沢山読んだ。なので、事件スキームや立ち位置を含めて新規性があったかというとNOである。読まなくてもほとんど全部知っていたし「想定の範囲内」ってやつだった。
だからこそ、堀江さんの物事の要点を一言で表すような才能が際立っていた。同じことも堀江さんの言葉になると、これほど明快・単純になるのかという感じである。他書を読んだ上でこれも読めば、堀江貴文という人の天才というか独創性というか、そういうものが少しわかる気がした。

実を言うと、テレビ放送にライブドアのURLを貼り付けるのが、私がしたかった唯一のこと。なのに、そのことを伝えると「え?そんなこと?」という風に完全に相手にされなかった。「あいつは裏の野望を隠している」みたいな穿った見方をされた。ネット業界の人もその本質をわかっている人は少なかった。(p.26)

あの時代のあの時点で、ネットの限界値をここまで冷徹に見切っていたとは。

落ち着いて立件容疑の内容を見てみたら(検察の言い分を仮に認めるなら)、単に財務諸表のBS(バランスシート・貸借対照表)に載せるべき数値がPL(損益計算書)に載っていただけのことである。(p.62)

これは堀江さんの言い分として最もだし、おそらく法的にもPLにのっけてもグレーの範囲だったんだろう。ただ、PLに乗っけるという判断根拠というか、BSにもPLに乗っけれる類のものを、PLに回した意思の根底には、株価維持のための利益ねん出があったのは揺るがない部分なんだと思う。要するに、テクニックで利益をねん出してもOKというルール運用から、本業頑張りなさいというルール運用に切り替えるための犠牲だったんだろう。本業=製造業的ものを好む社会風土というのが日本にはあるのだろう。GDPに占める第二次産業のシェアが減りつつあるとはいえ、急ぎ過ぎという判断だろう。第一次産業第二次産業の入れ替わりのときも色々と血を見たわけで。

検察庁は捜査、逮捕、起訴までできる、国内唯一の機関なのである。捜査、逮捕、起訴を同時にできるということは、自分たちが捜査した事件は、面子にかけて起訴してしまう可能性が高いということだ。(p.191)

佐藤優氏や田中森一氏など検察と戦った人の著作を読んだことがあるが、検察の問題点を一番わかりやすく書いた一文であるように思う。堀江氏は検察官の独断で善悪が決まる点を問題視しているが、検察はそれほど万能でも無いように思う。国民の意思というか、時代の空気を無視するようなことは検察もできないだろう。良い意味でも悪い意味でも衆愚に取り込まれている。ちょうど、小沢さんの西松建設の問題が出ているが、検察には抗議の電話がかかったらしい。金丸氏を罰金20万で終わらせた以来の批判の嵐とのこと。もし、検察が完全に独断で動くKY組織であったなら、早晩消滅することだろう。

次世代マーケティングプラットフォーム(湯川鶴章)

ネットに関する最新技術動向が2〜6章でよくまとめられている。また1章、7章に著者の意見は集約されており、広告業においてクリエイティブの重要性は相対的にポジションを下げていくだろうという話である。
本書は、Web屋や広告代理店の人よりも、広告主側の経営レベルの方が読むべきだろう。現在のテクノロジーで「何ができるか」を俯瞰できるため、それらの技術をどのように活用すべきか?を考えるにあたって、経営視点からツールを見つめることが有益と思うからである。
広告という枠にとらわれ過ぎると、とてもツマラナイ内容に読めてしまうだろう。マーケティングとはCMを流すことではなく、売上に貢献するあらゆる活動であるという視点から読めば色々と見えてくると思われる。

ここでもやはり、職人芸という個人の技の競い合いから、大量生産というテクノロジーを使って多くの人間の力を引き出す手法を用いた者が成功してきたわけである。それがテクノロジーによる社会変革の基本的な形であるわけだ。【p.39】

米国の広告主は、購買の直前のユーザーの行動だけでなく、それ以前の行動にまで興味を持つようになってきている。広告をクリックしなかったものの購買につながる行動は「ビュースルー」という表現で呼ばれるようになっている【p.106】

でも、最終的な利益を重視するならば、消費者の感性に訴えるような印象深いメッセージを何度も何度も見せることよりも、顧客のニーズを正確に把握し適切な商品を適切な価格で供給する関係を築くことのほうが、これからより重要になるのだ
クリエイティブな広告はなくならない。しかしその重要性は低下せざるを得ないのだ。【p.189】

さてこうしたツールを管理、運営するのは、マーケティング部だろうか。広告を出稿するのは宣伝部だろうか。ホームページ運営に関連するのだから広報部だろうか。
わたしは、どれも正解ではないと思う。コミュニケーション戦略をこうしたマスメディア全盛の20世紀型の組織体系のまま実施することに無理があるのだ。企業コミュニケーションが、広報、広告、マーケティングなどといった部署に分断されていては整合性に欠けるし、十分な力を発揮できないだろう。それにコミュニケーションが企業活動の中核になるのであれば、経営陣の直轄部署になるべきだ。【p.200】