初版 金枝篇 (上)(J.Gフレイザー)

初版 金枝篇〈上〉 (ちくま学芸文庫)

初版 金枝篇〈上〉 (ちくま学芸文庫)

ネミの森の掟(引用参照)の謎を解き明かす。原始信仰の豊富な事例を示しながら、呪術やタブーなどの人類学の問題を論理立てて説明していく。テーマ自体が非常に面白く、フレイザーの解釈・論理立ては読んでいて興奮する。ただ膨大な事例の量と索引の量に圧倒されてしまう。私は人類学者ではないので、、事例部分についてはサマリー程度で十分という印象である。本書は初版だが、事例をコンパクトにまとめた版もあるらしいので、そちらを読んでみたいと思っている。下巻を読む時間があるか自信がない。。。下記に示した引用部分は主に著者の論が展開されている部分である、引用を読んで刺激を覚えた方は一読して損はないだろう。

アリキアの木々の下に眠る
鏡のように穏やかな湖
その木々のほの暗い影の中で
治世を司るのは恐ろしい祭司
人殺しを殺した祭司であり
彼もまた殺されることだろう
【p.19】

この聖なる木立にはある種の木が生えており、その木の周りでは、昼日中、そしておそらくは夜中まで、奇妙な姿がうろついてるのが目にされたことだろう。この男は抜き身の剣を手にし、いつ何時敵に襲われるかもしれないといった様子で、用心深くあたりを見回していた。彼は祭司であり殺人者であった。そして彼が探している男は、遅かれ早かれ彼を殺し、彼の代わりに祭司職に就くことだろう。これがこの聖所の掟であった。祭司職を志願する者は、現在の祭司を殺すことによってのみ、その職に就くことができる。そして殺してしまえば彼は、より強く狡猾な男に彼自身が殺されるときまで、その職に就いていることができる。【p.20】

答えなければならない問いは二つある。第一に、なぜ祭司は前任者を殺さなければいけないのか?そして第二に、なぜ殺す前に、「黄金の枝」を折り取らなければならないのか?本書は以下、これらの問いの答える試みとなる。【p.25】

蛮人は、より進化した人々なら普通に行っている、自然と超自然の間の区別を、ほとんど理解していない。蛮人にとって世界は、ほとんどが、超自然の代理人によって動かされているものである。つまり、自分と同じような衝動や動機によって行動する個人的な存在、自分と同じように哀れみや恐怖や希望に訴えることで心動かされそうな存在が、超自然の代理人とみなされたのである。【p.30】

太古の人間には別の概念もあった。自然の法則という近代以後の概念の、萌芽みなせるかもしれない概念、すなわち、自然とは個人的な媒介者が立ち入ってくることなどない不変の秩序の中で生起する一連の出来事である、という自然観である。ここで言う萌芽は、共感呪術と呼び得るものに存する。【p.30】

樹木が、もはや樹木霊の身体ではなく、霊が随意に明け渡せる単なる住居とみなされるようになると、宗教的な思考にはひとつの重要な進歩が起こる。アニミズム多神教となる。換言すれば、人はもはや全ての木を、生きている意識のある存在とみなすのではなく、単に命のない不活発な塊とみなすようになる。超自然的な存在は長期間であれ短期間であれそこに仮住まいし、意の向くままに木から木へと移り住み、そのたびに木に対する所有権や支配権を享受する。この霊はもはや一本の木の魂であることをやめ、森の神となるのである。こうして樹木霊が個々の木からある程度自由になるや否や、霊は自らの姿を変え、人間の姿を帯びるようになる。これは概して原始の思考が、抽象的な霊的存在の一切を、具体的に人間の姿として理解する傾向があったことに由来する。【p.103】

神聖と穢れの概念は、蛮人の精神においていまだ分化していない。蛮人にとって、このような人々が共通に持っている特徴といえば、それが危険人物であるということ、危機的な状況にあるということであり、そのような人々が置かれている危険、もしくはそのような人々が他人に及ぼすかもしれない危険は、霊的ないし超自然的なもの、つまりは想像的なもの、と呼ばなければならない。だがその危険は、想像的なものであるからといって現実味が劣るわけではない。想像とは、重力と同じくらい現実に人間に作用するものであり、青酸の一服と同じくらい確実に、人間を殺すことがある。恐れられている霊的危険が人々に及ばないよう、もしくはその人々から発散されないよう、その人々を他の人間たちの世界から隔離しておくことが、タブーを守る目的なのである。【p.237】

その哲学は、われわれには粗雑で誤ったものに思えるかもしれないが、そこに論理的な整合性という価値がある点を否定することは不当であろう。小さな存在すなわち魂が、生きている人間の内部に、とはいえその人間とはまったく別個に、存在している―生命の原理をこのように捉えることから出発して、この哲学は、人生の実用的な手引きとなる、一連の規則体系を導き出した。それは概して十分つじつまのあう体系であり、実に完璧で調和の取れた統一体を形づくっている。この体系の欠点は、なるほど致命的な欠点ではあろうが、推論の筋道にあるのではなく、前提のほうにある。生命の本質に関する概念のほうにあるのであり、その概念から引き出された的外れな結論にあるのではない。だが、われわれが容易にその誤りを看破できるからといって、これらの前提を馬鹿げたものとして一蹴することは、非哲学的であるとどうじに恩知らずな行いであろう。われわれの現在立っている土台は、幾世代も前から築き上げられてきたものであり、われわれが現在到達しているこの地点に、なんとか辿り着こうとして人類がこれまで費やしてきた、長く痛ましい努力を、われわれはただ、ぼんやりと認識できるに過ぎないのである。【p.274】

一方山羊は、先に見たとおり、もともとは神自身の化身であった。だがこの神がその動物としての性質を剥奪されてしまい、人間としての本質を備えることになると、これを崇拝するときに山羊を殺すことは、もはや神自身を殺すこととはみなされなくなり、神のための生贄とみなされることになる。【p.447】

かくしてわれわれは奇妙な光景を目にすることになる。神は自身が自らの敵となるために、神が自らに捧げられる生贄となる、という光景である。そして、神は自分に捧げられた生贄を食すると考えられるので、生贄がかつての神自身であるなら、神は自らの肉を食するもの、ということになる。【p.447】