情報革命バブルの崩壊(山本一郎)

情報革命バブルの崩壊 (文春新書)

情報革命バブルの崩壊 (文春新書)


切り込み隊長の書いた本。ブログの方は私の巡回先で好きな部類に属しているので早速購入して読んでみた。
文体は随分普通になってて残念。良く言えばまとも近づいたというべきか。前著「俺様国家」中国の大経済で、小飼弾あたりに文体を叩かれて気がするから、その影響とかだろうか。
文体はどうでもいいのだけれども、いやある意味文体にも表れるのだけれども、山本氏の近年の大人度の上昇っぷりは半端じゃない。賢い人特有の先が見えてしまったり、仕組みが分かってしまったりすることからくる達観みたいなのが強く出てきてしまっていて個人的には悲しい鴨。若くして老獪さを身につけてしまうのは、それはそれで美学な気がするけれども。ただひょっとすると前のめりな姿勢や若者っぽさみたいなのが減っているのは個人の経験蓄積よりも、不景気ですね、という業界や時代に流れる空気の淀みみたいなものの影響の方が大きいのかもしれない。でもまぁ、山本氏ほどの人物であれば自身の中の人生哲学や投資哲学みたいなものが出来ていそうだから、時代背景とは関係なく若者の饗宴からは一番最初に抜けるタイプなのかもしれない。

さて、書評。

全体を通してネットに対してややネガティブなサイドから語っている。というか、ネットとリアルで切り離されずに、リアルの延長上にネットが存在し、ネットはリアルの手のひらに上に載っていることに気付きなさいというスタンスが貫かれている。

■1章 本当に新聞はネットに読者を奪われたのか
新聞記事自体の価値は失われておらず、ネットで新聞記事をバラ読みしてるだけだよ、Yahooに記事を買いたたかれていて可哀想だね。でも、新聞記事そのものは価値が存在し、価値を失ったのは紙の新聞というパッケージ形態や流通形態なんだ、新聞記事自体の価値を上手く換金する方法考えようね。新聞は今までは誰が読んでる?みたいなユーザー属性とかさっぱりだったけど、新聞記事自体の商品価値が問われる世界では、ユーザー属性を抑えるみたいな初歩的な始めていこう。まぁがんばってくれ。という話。


まぁ、回答なんてないので消化不良になるのは仕方ないのだが、新聞が失ってしまった「新聞紙」というパッケージの代償は相当大きいのではないないだろうか。というか、新聞紙というのは不要な記事もセットで販売したうえでの定価づけだったのだけれども、ネットで記事単位でバラまかれてしまっては人気無い記事には値がつかないことになってしまう。
山本氏は、ユーザーが読む(PV稼げるのは)のは「政治、国際、芸能」だと言っているが、PVだけではだめだろう。もう1歩踏み込んで、どの記事の横のバナーが一番押されるかがポイントになってくる。そこまで考えると、クラウド化する世界の議論にあったように、高尚な政治、文化の記事に比べて、大型薄型テレビ(テレビの販売バナー)や禿げに効く謎の新物質の発見(養毛材バナー)などを扱う記事のウェイトが高くなることは必然である。というか、CTRの悪い政治文化の記事が生き残れるかという話になりそうである。正当なジャーナリズムが発揮される記事のCTRが低い場合、いままでパッケージ新聞紙という形でみんなで負担してた文化的価値の高い記事群のコストは誰が負担するのかという話になる。FACTAの有償で見たいやつだけ金払えというのは微妙だろう。無料でもあまり読まない人が多いのに、ますますみんな芸能記事しか読まなくなるじゃないか。。。まぁ、何も思いつかないので、新聞社は大変ですねという話以外の何物でもない。
新聞広告についていうと、もう単品じゃ売れないからメディアミックスという衣を着せて、セット売りしかないという状況になってる。ただ、ミックスする素材がテレビでは、どっちがメインか不明になるし、そんなに金がないということで、結局はネットと新聞のセット売りが多いようだけど、そんなその場しのぎの施策によって、新聞広告の効果測定がネットのクリックベースでバンバン計測されようとしていて、どう見ても危険な方向に突っ走ってると思えない。


■2章 ネット空間はいつから貧民の楽園に成り下がってしまったのか?
ネットには貧乏人しかいないよね。情報量の増大が、個人の情報処理量を超えてしまっていて、個人の知識の専門家が進んでいますね。それは、ネットでは本書曰く「島」、ありていに言えば「コミュニティ」の乱立に繋がっていて、みんな自分の所属するコミュニティ以外のことには無関心だし、真贋を見分けることもできない状態。そういった状態が土台としてあって、ネットイナゴとかの先鋭化するわけで、ちょっとした芸能人の発言などで炎上するという異常事態を招いてるよねという話し。


これも概ね賛成なのだけど、ネットイナゴや炎上の問題と言うのは別にネット特有でも無いでしょうという気がする。既存の週刊誌やワイドショーなどでも、政治家などを中心にちょっとした失言や揚げ足取りをマスコミが演出し、視聴者が盛り上がって世論形成なんてのはよく見る光景だと思うからだ。ネットがなくても、GMの会長が自家用ジェットで金借りに行ったのは問題になったのは間違いないが、世界的大企業の経営者がエコノミーで飛んでいく方が不自然であって、別に騒ぐことじゃない。
ただ、ネットの方がそういった表面的でどうでもいいことで盛り上がりやすいという傾向はあるだろう。これはやはり、2ch右傾化などに見られるように、コミュニティ(本著では島)が細分化され、仲間内でのみ議論する環境が整ったからだろう。似通った意見を持つ人々を議論させるとどんどん意見が先鋭化していくものである。
逆に言えば、理由はそれだけであり、山本氏があげているような情報量の増大による、個人知識の専門家などはあまり関係ないかもしれない。インターネット上にmixiと2chしか存在しなくても、やはりネットの先鋭化は起こった気がする。本著1章で述べられているように、ネットが登場する前から情報はとっくに溢れていた(新聞を全部読める人など少なかった)のである。アクセス情報量は、とっくに人間の脳の限界を超えていたので、個人にとってみれば情報化前後で受け取る情報量は一定だと言ってもいいだろう。
クラウド化する世界では、ネットを『何マイルもの広がりがありながら、わずか1インチの深さしかない文化だ。』と表現している。これに本著の議論を重ねるなら本書では、「何マイルもの深さがありながら、1インチの広がりしかない文化」ということになるかもしれない。なぜなら興味関心のない分野は深さどころか存在しないも同然だからだ。
こう考えると、ネットの文化というのは、全体の構成としては十分な深さと広がりを持つが、個人からみると隣の穴に関しては地上から1インチの深さしか見ず、自分の属している穴は無限の深さを持っているように見える文化なのだろう。各穴で専門家が進むがそれを有機的に組み合わせることができるのは検索エンジンぐらいという話しかもしれない。
なんかgdgdなので、ちゃんとまとめよう。いつか。


■3章〜5章
このあたりは山本氏の本領発揮という感じで、ふむふむ読んでいた。面白かった。ソフトバンク回りの話はFACTAで読んだような内容とかぶりつつも興味津津。孫さんは憧れる経営者ではあるので頑張ってほしい。
インフラただ乗り論については、Web屋として色々思うところもあったが、疲れたので書評は控える。ただ、現在の無料Webサービスを支えているのは、市場からの資金、広告宣伝費、無料整備される足回り なわけで、そのあたりがグラついてくると、もう無料サービスは出ないのかもしれない。もしくは、無料を維持し続けられる範囲でサービスが出るだけかも。ただ、ネットは無料という環境を人々が甘受し続けたいと思えば、この座組みはづっと続くのだろう。携帯電話の販売奨励金をはじめとした垂直統合ビジネスががいろいろ問題ありながらも生きながらえるのは、消費者に指示されてるからである。結局は、ユーザーに納得してもらえるほど、それこそ小泉さんばりの分かりやすさで引っ張るリーダーが居ないと、インフラ回りの金負担の議論なんてできないだろう。裏で税金を使おうが何をしようが、ユーザー(=国民)がネットは無料だという体を維持したいと望めば、無料のままの気がする。でもまぁ、ぶっちゃけ日本のインフラ回りは、まだそれほど深刻じゃないのでは?と思う。テレビよりPCで動画を見る割合が多くなるとかそういうレベルになった時の議論の気もする。それが近いのかもしれないけれども。