おもてなしの経営学 アップルがソニーを超えた理由 (中島聡)

おもてなしの経営学 アップルがソニーを超えた理由 (アスキー新書)

おもてなしの経営学 アップルがソニーを超えた理由 (アスキー新書)

マイクロソフト黎明期から活躍していた日本人Geekによる書籍。サービスやプロダクトをバラバラに提供しても意味がなく、それらをトータルに組み合わせて、顧客の効用をどれだけ上昇させるかが重要であると言い続ける一冊。メッセージは、それだけなので個人的には学ぶところは余りなかった。将来的な部分よりも、過去のマイクロソフトでの逸話や、ビルゲイツとジョブスの考え方の対比など、現場で実際にゲイツやジョブスなどの巨人たちと働いてきた人間が語るマイクロソフトやアップルが非常に生々しくて面白かった。おもてなしの経営学よりも、マイクロソフト秘話やマイクロソフトの成長過程・組織構造を書いてほしい。

マイクロソフトのカルチャーは、ビル・ゲイツそのままで、そのいちばんの目標は「勝つ」ことにある。【p.29】

結局のところは「インターネットバブルは一度ははじけてしまったけれど、やはりインターネットは僕らのライフスタイルを根本から変えてしまうほどのパワーを持つ」意味での「インターネットの再評価」だったし、「インターネットの『あちら側』の本当の価値は、ソフトウェアやサーバにあるのではなく、『他の人たち』にある」という「他の人とつながるためのツール」としてのインターネットの重要性の再認識である。【p.85】

実はブルーカラーの労働者に対して、仕事への「誇り」や「愛着」を持たせることで、大量生産時代以前の熟練工が持っていたクラフトマンシップを取り戻せるメリットが意外に大きいのである。【p.111】

だけどなぜか、ウィンドウズだけ本社からクリス・ラーソンという米国人が日本に来ていて、僕はその部下になって仕事をしていたんです。この上司がまたすごくて、常にハイテンションで会議中に叫び声を上げるは、顔を真っ赤にして怒るは、断固として譲らないはで、有り余るほど熱意を持って取り組んでいた。【p.175】

仕事人にはふたつのタイプがいるという話を聞いたことがあるんだ。「上を見て」仕事をするタイプと、「天を見て」仕事をするタイプ。上司の顔色や直近の自分の損得だけで動くのが「上を見て」仕事する人。「天を見て」仕事をする人は、会社や上司のためではなくお客様のためにいい仕事をする、この技術が未来につながるとか社会的に必要だという美学を貫き、自分の信条を持って動く。【p.191】

いつまでもOSやアプリケーションをパッケージ販売するのではなく、サービスの使われ方に対して、たとえばユーザーの満足度に応じて価格を変えたり、ユーザーが得た利益の対価としてその何パーセントかを還元していただくとか、そのようなかたちでソフトウェア契約をサービス事業に変えていくパラダイムシフトを起こさないといけない。【p.194】

ユーザー・エクスペリエンスの設計が難しいのは、ソフトやハードはもちろん、インダストリアルデザインやマーケティングが一体となって初めて魅力になりうるものだからです。つまり、縦割りの組織ではとても設計できない。トップの人がユーザー・エクスペリエンスの大事さを理解して引っ張らないとダメなんです【p.204】

一方で、大企業を飛び出したのはいいけど、僕のように外資系の波に乗って米国に来てということができずに、どうしようもない下請けベンチャーみたいなところに入って日々苦しんでいる人もいる、僕のような人間が日本にいないわけではなく、花開きにくいのだと思います。【p.226

初版 金枝篇 (上)(J.Gフレイザー)

初版 金枝篇〈上〉 (ちくま学芸文庫)

初版 金枝篇〈上〉 (ちくま学芸文庫)

ネミの森の掟(引用参照)の謎を解き明かす。原始信仰の豊富な事例を示しながら、呪術やタブーなどの人類学の問題を論理立てて説明していく。テーマ自体が非常に面白く、フレイザーの解釈・論理立ては読んでいて興奮する。ただ膨大な事例の量と索引の量に圧倒されてしまう。私は人類学者ではないので、、事例部分についてはサマリー程度で十分という印象である。本書は初版だが、事例をコンパクトにまとめた版もあるらしいので、そちらを読んでみたいと思っている。下巻を読む時間があるか自信がない。。。下記に示した引用部分は主に著者の論が展開されている部分である、引用を読んで刺激を覚えた方は一読して損はないだろう。

アリキアの木々の下に眠る
鏡のように穏やかな湖
その木々のほの暗い影の中で
治世を司るのは恐ろしい祭司
人殺しを殺した祭司であり
彼もまた殺されることだろう
【p.19】

この聖なる木立にはある種の木が生えており、その木の周りでは、昼日中、そしておそらくは夜中まで、奇妙な姿がうろついてるのが目にされたことだろう。この男は抜き身の剣を手にし、いつ何時敵に襲われるかもしれないといった様子で、用心深くあたりを見回していた。彼は祭司であり殺人者であった。そして彼が探している男は、遅かれ早かれ彼を殺し、彼の代わりに祭司職に就くことだろう。これがこの聖所の掟であった。祭司職を志願する者は、現在の祭司を殺すことによってのみ、その職に就くことができる。そして殺してしまえば彼は、より強く狡猾な男に彼自身が殺されるときまで、その職に就いていることができる。【p.20】

答えなければならない問いは二つある。第一に、なぜ祭司は前任者を殺さなければいけないのか?そして第二に、なぜ殺す前に、「黄金の枝」を折り取らなければならないのか?本書は以下、これらの問いの答える試みとなる。【p.25】

蛮人は、より進化した人々なら普通に行っている、自然と超自然の間の区別を、ほとんど理解していない。蛮人にとって世界は、ほとんどが、超自然の代理人によって動かされているものである。つまり、自分と同じような衝動や動機によって行動する個人的な存在、自分と同じように哀れみや恐怖や希望に訴えることで心動かされそうな存在が、超自然の代理人とみなされたのである。【p.30】

太古の人間には別の概念もあった。自然の法則という近代以後の概念の、萌芽みなせるかもしれない概念、すなわち、自然とは個人的な媒介者が立ち入ってくることなどない不変の秩序の中で生起する一連の出来事である、という自然観である。ここで言う萌芽は、共感呪術と呼び得るものに存する。【p.30】

樹木が、もはや樹木霊の身体ではなく、霊が随意に明け渡せる単なる住居とみなされるようになると、宗教的な思考にはひとつの重要な進歩が起こる。アニミズム多神教となる。換言すれば、人はもはや全ての木を、生きている意識のある存在とみなすのではなく、単に命のない不活発な塊とみなすようになる。超自然的な存在は長期間であれ短期間であれそこに仮住まいし、意の向くままに木から木へと移り住み、そのたびに木に対する所有権や支配権を享受する。この霊はもはや一本の木の魂であることをやめ、森の神となるのである。こうして樹木霊が個々の木からある程度自由になるや否や、霊は自らの姿を変え、人間の姿を帯びるようになる。これは概して原始の思考が、抽象的な霊的存在の一切を、具体的に人間の姿として理解する傾向があったことに由来する。【p.103】

神聖と穢れの概念は、蛮人の精神においていまだ分化していない。蛮人にとって、このような人々が共通に持っている特徴といえば、それが危険人物であるということ、危機的な状況にあるということであり、そのような人々が置かれている危険、もしくはそのような人々が他人に及ぼすかもしれない危険は、霊的ないし超自然的なもの、つまりは想像的なもの、と呼ばなければならない。だがその危険は、想像的なものであるからといって現実味が劣るわけではない。想像とは、重力と同じくらい現実に人間に作用するものであり、青酸の一服と同じくらい確実に、人間を殺すことがある。恐れられている霊的危険が人々に及ばないよう、もしくはその人々から発散されないよう、その人々を他の人間たちの世界から隔離しておくことが、タブーを守る目的なのである。【p.237】

その哲学は、われわれには粗雑で誤ったものに思えるかもしれないが、そこに論理的な整合性という価値がある点を否定することは不当であろう。小さな存在すなわち魂が、生きている人間の内部に、とはいえその人間とはまったく別個に、存在している―生命の原理をこのように捉えることから出発して、この哲学は、人生の実用的な手引きとなる、一連の規則体系を導き出した。それは概して十分つじつまのあう体系であり、実に完璧で調和の取れた統一体を形づくっている。この体系の欠点は、なるほど致命的な欠点ではあろうが、推論の筋道にあるのではなく、前提のほうにある。生命の本質に関する概念のほうにあるのであり、その概念から引き出された的外れな結論にあるのではない。だが、われわれが容易にその誤りを看破できるからといって、これらの前提を馬鹿げたものとして一蹴することは、非哲学的であるとどうじに恩知らずな行いであろう。われわれの現在立っている土台は、幾世代も前から築き上げられてきたものであり、われわれが現在到達しているこの地点に、なんとか辿り着こうとして人類がこれまで費やしてきた、長く痛ましい努力を、われわれはただ、ぼんやりと認識できるに過ぎないのである。【p.274】

一方山羊は、先に見たとおり、もともとは神自身の化身であった。だがこの神がその動物としての性質を剥奪されてしまい、人間としての本質を備えることになると、これを崇拝するときに山羊を殺すことは、もはや神自身を殺すこととはみなされなくなり、神のための生贄とみなされることになる。【p.447】

かくしてわれわれは奇妙な光景を目にすることになる。神は自身が自らの敵となるために、神が自らに捧げられる生贄となる、という光景である。そして、神は自分に捧げられた生贄を食すると考えられるので、生贄がかつての神自身であるなら、神は自らの肉を食するもの、ということになる。【p.447】

峠 (下巻) (司馬遼太郎)

峠(下) (新潮文庫)

峠(下) (新潮文庫)

峠の最終巻。上巻は河合継之助のカッコヨサに惚れ、中間は21世紀の中管理職が抱くような問題意識との共通点に面白みを感じた。そして、下巻は歴史物語として怒涛の展開を素直に楽しみ、感動し、河合継之助の武士として美しい生き様に引き込まれた。名著である。

政治家というものは天下の半ばを動かすだけの声望と権力が必要だ、その声望をつくりあげてはじめて一個の政治家ができあがる【p.28】

その境遇さえ変えれば一国一天下を動かしうる器才であると自分でも自分をおもっているのであろう。【p.28】

陽明学にあっては、事をおこすとき、それが成功するかしないかは第一義ではない。結果がどうかということは問わない。むしろ結果の利益を論ずることはこの学問のもっとも恥じるところなのである。この学問にとって第一義と言うのは、その行為そのものが美しいかどうかだけであり、それだけを考えつめてゆく。【p.120】

革命の原理というべきものであろう。旧勢力の代表者を斃し、その血に染まった犠牲をたかだかと世間にかざすことによってあたらしい時代がきたことを表示するのが革命につきものの生態であり戦略であったが、徳川慶喜が絶対恭順でもってそれから逃げきってしまったため、薩長はふりあげた斧を会津藩にむけるしかなかった。【p.145】

中立はたとえ情勢上不可能であろうとも、日本国でただ一つの例外を、継之助はその全能力をかたむけてつくりあげるつもりであった。【p.188】

本当に救いや妙案などはありはしない。甲案がよいという意見が出ても、他の者が甲案のもつ危険性を衝けばもう崩れてしまうのである。どの案も多分の危険性をもっており、危険性ばかりをあげつらって評定してゆけば評定の席を暗くするのみで溜息ばかりを吐きあう座になってしまう。【p.196】

全軍がひたすらに進み、無我夢中で歩きつづけるという行動をつづけていると、敵に対する恐怖心もうすらぎ、この戦いの意義について疑問や不安をいだくということもすくなくなるという戦場の心理を、とくに山県という歴戦の男は心得ていた。【p.208】

要するに「武士は主君のために存在してる」という素朴な倫理観が、継之助の考え方の基礎の一つになっている。【p.231】

人間、煮つめてみれば立場だけが残るものらしい。わしは若いころ自分の思想のままに働いたが、結局はこの大野右仲は御譜代大名である唐津藩藩士として生死するしか仕方がないのかもしれぬ。【p.247】

人よりも多少ましな才覚はあるらしいが、その才覚を恃む心の方がつよいらしく、ひとを小馬鹿にしたようにして継之助を上座から見おろしている。臆病ではなさそうである。臆病どころかどちらかといえば勇気がありげだが、その勇気は権力をつかんだときにあらわれる型らしく、目もとがひどく癇走っている。【p.263】

陽明の徒は万策尽きたときにすべての方略をすてその精神を詩化しようとするところがある。継之助は詩へ飛躍した。【p.299】

器量が狭い上に自尊心が強すぎたことがこの人物の成長をはばみ、さほどの業績ものこさぬまま明治二十五年に病死している。【p.400】

峠 (中巻) (司馬遼太郎)

峠(中) (新潮文庫)

峠(中) (新潮文庫)

「改革はせっかちにやるな」という点や、「改革することで死ぬ人間は必至に抵抗する」といったことは経営の未来 ゲイリー・ハメルでも何度も触れられていた。21世紀のマネジメント論の中でも異端の部類に入る新規性をもったビジネス書の内容と、幕末の小藩の家老の思考が被るという点は非常に興味深い。また、司馬遼太郎という人の洞察力はやはり恐ろしい。私はビジネス書の内容と被る部分を、ビジネス書以外で発見することが多い。同じ内容でも、小説や哲学書の方が人間の内面から切り込んでいて深い洞察が成されていることが多く、なんというか、ビジネス書ばっかり読んでいたらいかんなと思う。

「改革はせっかちにやるな」
というのが、師の山田方谷の体験から割りだした智恵であった。せっかちにやると旧勢力の抵抗が大きくなり、改革どころかおもわぬ騒動になり、藩に大きな傷を負わせることになる、というのである。【p.19】

おれの日々の目的は、日々いつでも犬死ができる人間たろうとしている。死を飾り、死を意義あらしめようとする人間は単に虚栄の徒であり、いざとなれば死ねぬ。人間は朝に夕に犬死の覚悟をあらたにしつつ、生きる意義のみを考える者がえらい」【p.24】

まず胆をうばってから道理を説き、ふたたび相手が首をもたげると別の手でいま一度胆をうばい、最後に酒宴でうちとけさせてしまうというのが、継之助の手であるらしい。【p.33】

人間を動かすものは感情であり、よりそれを濃厚にいえば「情念」なのであろう。【p.126】

なるほど継之助は、真実を求めるために塾を転々とし、諸国を遍歴した。しかしそれは自分の勤勉さ、篤実さ、刻苦勉励的なものによるのかと自問すると、どうやらちがう。どうやら学問よりも旅の気楽さ、その日常からの解放のほうに魅力を感じていたらしい。酒徒が酒を恋うようにそのことは継之助にとっては強烈な欲求だった。怠けたい、ということなのである。【p.157】

「人間はえらそうな顔して手前で生きているつもりだろうが、世の中に生かされているだけの生きものだよ」
「だからうかうか世の中を改革しようと思っちゃ、いけねえということだ。世の中の制度や習慣をうかつに触って弄っては、そこに住む人間が狂うか、死ぬ。人間どもはそうされまいと思って気ちがい沙汰の抵抗をするよ」【p.180】

革命は常に権謀と詐略にみちている。いわば巨大な陰謀であるといえるであろう。【p.236】

自由と権利というものが西洋の先進文明を成り立たせている基礎であり、政治、法律、社会をはじめ、人間のくらしのうえでの小さなことがらにいたるまでの基礎思想であり、さらには人間を人間たらしめている大本であることに、日本人のたれよりも早く気づいたのは福沢諭吉であろう。【p.416】

そこが政治というものの奇怪さであろう。会津藩は幕府からたのまれ、いやいやながらも幕府の京における楯になり、文久以来あれほどにはたらき、京や伏見でさんざんに流血の犠牲をはらってきたというのに、いまでは徳川家からも捨てられようとしている。絶対恭順主義をとっている徳川慶喜としては、ともに上方から逃げかえってきた会津藩がいつまでも江戸にいるということほど不都合なことはない。【p.518】

鳴かず飛ばすが最良というのは、ながい封建政治がうんだ意外にふかい知恵であるかもしれない。かれらは、言う。「天下動揺などといってもおどろくにはあたらない。むかし徳川氏が天下をとったとき諸侯はあらそってその戦勝を祝賀し、その家の封地保全された。こんど薩摩の島津氏が天下をとるだけのことであり、われらはただそれに従えばよい」【p.520】

経営の未来 ゲイリー・ハメル

経営の未来

経営の未来

元コンサル上がりの私は、この著書で酷評されている効率化の重要性を骨の髄まで叩き込まれている。いわゆる昨今の定量性を重視した科学的経営に真っ向から疑問を投げかける著書であり、内容には心底驚いた。経営やマネジメントに携わる人間は是非とも一読すべきである。今までにはない軸で書かれており、一読の価値は絶対にあると太鼓判を押せる。ひょっとすると、10年後に経営論やマネジメントを変えた名著になっている可能性もある。それぐらいにエッジが効いた論旨が展開されている。

我々が過去半世紀の間に目にしてきた技術やライフスタイル、地政学の途方もない変化に比べると、経営管理の手法は亀のようにのろのろとしか発展してこなかったように感じられる。
残っている中間管理職は、管理者が昔からやってきたことをそのままやっている。つまり、予算を作成し、作業を割り当て、業績を評価し、部下をおだててもっと成果を上げさせようとしているわけだ。【p.3】

第二に、多くの経営幹部が大胆な経営管理イノベーションが実際に可能であるとは思っていない。
奇妙なことに、管理職は科学が長足の進歩を遂げることは当然のように思っているのに、経営管理の手法が進歩しないことは少しも気にしていないようだ。【p.42】

つまり、前例を破る経営管理イノベーションの可能性を最大にするために、重要で興味をそそり、本質的で賞賛に値する問題に取り組むべきなのだ。
1.あなたの会社がこの先直面することになる新しい課題は何か。
2.あたたの会社がうまくやれそうにない難しい両立課題は何か。
3.あなたの会社の理論と現実のギャップのうち、最大のものは何か。
4.あなたは何に憤りを感じているか。【p.47】

ほとんどの企業で、管理職の権限は、その人物が管理している資源と直接的な相関関連があり、資源を失うことは地位や影響力を失うことを意味する。そのうえ、個人の成功は通常その人物の事業部門やプロジェクトの業績だけで決まる。そのため、プログラム・マネージャーは「自分の」資本や人材を新しいプロジェクトに配分しようとする動きには―その新プロジェクトがどれほど魅力的あるかに関係なく―抵抗する。
第二に、資源配分のプロセスは一般に新しいアイデアに不利になっている
既存事業の延長線上にあるプロジェクトはリターンを予想しやすいが、まったく新しいアイデアのリターンはいつだって計算を立てにくい。
ところが大企業は、新しいアイデアの一つひとつを、それぞれ独立した投資とみなす傾向があり、そのため既存の活動をほんの少し拡大しただけのプロジェクトしか満たせないような高レベルの確実さを要求する。その一方で、既存事業を運営している幹部は、徐々に衰退しているビジネスモデルに大金を注ぎ込とき、あるいはすでに収益が減少しつつある活動に過度に資金を投入するとき、その戦略的リスクを弁明するよう求められることはめったにないのである。【p.57】

イノベーションを阻む真のブレーキは、古いメンタルモデルの足かせなのだ。長年その会社に勤めている幹部は、概して既存の戦略に強い思い入れを持っている。その会社の創業者ともなると、なおさらだ。多くの起業家があまのじゃくとしてスタートするのだが、成功はともすると彼らを、唯一の真の信仰を守ろうとする枢機卿に変えてしまう。【p.66】

1.社内のすべての人間をイノベーション活動に参加させ、各人に創造力を高めるツールを持たせるにはどうすればよいか。
2.トップ・マネジメントの空疎な信念がイノベーションを阻まないようにし、異端のアイデアがその価値を実証するチャンスを与えられるようにするにはどうすればよいか。
3.今日の結果を出すために全力で走っている組織で、草の根イノベーションのための時間を空間を生み出すにはどうすればよいか。【p.69】

肩書に頼って物事を進めることに慣れているリーダーは、ゴアのモデルを羨望だけでなく、それに劣らぬ大きな恐怖をもって眺めることだろう。従来どおりの考え方をしている管理職は、権力が地位から切り離されている組織という現実を前にすると、無理からぬことではあるが、あわてふためく。そのような組織では、より上の階層にいるというだけで決定を押し通すことはできないし、自分が命令を下せる「直属の部下」もいない。その人に従いたいと思う人間が誰もいなければ、その人の権力はまたたく間に消えうせる。おまけに、資格や知的優位が立派な肩書という栄誉で認められることもない。【p.121】

彼らの論理は単純明快だ。Aレベルの人間はAレベルの人間と、つまり自分の思考を刺激し、自分の学習を加速してくれる優秀な同僚と働きたがる。だが、Bレベルの人間は、Aクラスの人間に脅威を感じるので、ひとたび入社したら、自分と同程度の凡庸な同僚を採用する傾向がある。さらに悪いことに、自信の面で若干問題のあるBクラスの社員は、自信がなくて誰の意見にも反対できないCクラスの社員を採用することさえある。凡庸な社員が多くなると、本当に非凡な連中を引き寄せたり引き止めたりすることは難しくなる。そして、いつのまにか社員の質の低下という流れが反転不可能になっている、というわけだ。【p.136】

小規模なチームは、グーグルを和気あいあいとした企業に―膨れ上がった官僚型組織ではなく新規企業のように―感じさせる働きもしている。大規模なチームでは、個人の抜きん出た貢献がえてして上司の手柄にされたり、まぬけな同僚によって帳消しにされたりする。グーグルの小規模なチームは、個人の努力とその人の業績の密接なつながりを維持するのに役立っているのである。【p.142】

実をいうと、「エンプロイー(従業員)」という概念は近代になって生み出されたもので、時代を超越した社会慣行ではない。強い意志を持つ人間を従順な従業員に変えるために、二十世紀初頭にどれほど大規模な努力がなされ、それがどれほど成功したかを見ると、マルクス主義者でなくてもぞっとさせられる。近代工業化社会の職場が求めるものを満たすためには、人間の習慣や価値観を徹底的に作り変える必要があった。生産物ではなく、時間を売ること、仕事のペースを時計に合わせること、厳密に定められた間隔で食事をし、睡眠をとること、同じ単純作業を一日中際限なく繰り返すこと―これらのどれ一つとして人間の自然な本能ではなかった(もちろん、今もそうではない。)したがって、「従業員」という概念が―また、近代経営管理の教義の他のどの概念であれ―永遠の真実という揺るぎないものに根ざしていると思い込むのは危険である。【p.163】

つまり、次の四つの条件が満たされていれば、トップダウンの規律はあまり必要ないのである。
1.現場の社員が結果に責任を負わされている。
2.社員がリアルタイムの業績データを入手できる。
3.業績に影響を及ぼす主要変数について社員が決定権を持っている。
4.結果、報酬、評価の間に密接な関連がある。【p.172】

企業においても同じことが言える。新しいアイデアは古いアイデアを少しばかり拡大したアイデアと同じ間接費を負担することはできないし、同じリスク・ハードルを満たすことこともできない。また同じ短い期間で投下資本を回収することもできない。この点を認識していない経営管理システムや間接費配分ルールは、イノベーションを抑圧することになる。これに劣らず重要な点として、最先端のアイデアに取り組んでいる人たちは、同じものをたくさん生み出すことを担っている人たちと日々触れ合う必要があり、後者もまた前者と日々触れ合う必要がある。都市の場合と同様、新しいものや奇抜なものが、時の試練を経たものや、まともなものと隣り合っていれば、誰もが得をするのである。【p.228】

IBMのトップレベルの成長促進チームは、新規事業に関しては利益を上げる前に、まず学習しなければならないということを理解していた。そのため、新規事業に利益に対する責任を負わせなければ、何に対しても責任を負わせていないことになるという有害な考えを撃破したいと思っていた。IBMの過去の成長努力の多くが、早くから利益を求められるために、いずれはもっと強力で、もっと方向性が明確なビジネス・モデルを生みだしていたはずの学習や実験が早々と打ち切られ、その結果、その事業の潜在的な力が制限されたことで行き詰っていたのである。
ほとんどの企業でそうであるように、IBMの主流のプロジェクト評価プロセスでは、分析の確実性と財務の正確さ、それに当期の業績に大きなウェートが置かれている。新しい事業を一から築こうとするときには、こうした方式は有害であることを十分に認識して、ハレルドのグループは、新しい市場を創出するという波乱に満ちた仕事により適した、新しい評価方式を生み出した。
EBOの初期段階では、学習と実験が重視され、進捗の度合いは、接触した顧客の数、製品開発のペース、進行中のパイロットテストの数など、短期的な学習に重きを置いた基準によって測定される。【p.289】

峠 (上巻) (司馬遼太郎)

峠(上) (新潮文庫)

峠(上) (新潮文庫)

峠、上中下巻の中で私が最も好きな巻。主人公である河合継之助の内面に触れてある。武士道的な美学というのは、現代っ子の私でも憧れ部分があるため、継之助のカッコヨサにしびれる。また、やるリスクよりやらないリスクの方が高いWeb業界に身を置く私としては、実践を重視する陽明学徒の苛烈な生き方・考え方にはただただ感服。

人間の世の中の仕掛けというのものに興味をもっている。剥いてしまえばただの人間にすぎぬものを、それに権威を持たせようとするばあい、どのような仕掛けが必要か、ということである。【p.90】

人間など、人間そのものはたかが知れている。【p.251】

人間は、互いに肥料であるにすぎぬ。肥料に惚れてしまってはどうにもならぬ。【p.251】

権威とはおそろしいということも将来わかるだろう。大人になり、食い気が衰えたときに、舌で味わえるようになる。味の微妙さがわかってくる。世の中は万事、味の分かった大人と、食い気だけの若衆の戦いだ【p.265】

この種の厭世趣味は平安朝の貴族たちのいわば美的生活の塩味のようなものであり、それほどめくじらを立てて考えこむほどのものではない。【p.361】

藩組織の片すみでこつこつと飽きもせずに小さな事務をとってゆく、そういう小器量の男にうまれついた者は幸福であるという。自分の一生に疑いももたず、冒険もせず、危険の淵に近づきもせず、ただ分をまもり、妻子を愛し、それなりで生涯をすごす。「一隅ヲ照ラス者、コレ国宝」【p.445】

物事をおこなう場合、十人のうち十人ともそれがいいという答えが出たら、断乎そうすべきです。ちなみに、どの物事でもそこに常に無数の夾雑物がある。失敗者というものはみなその夾雑物を過大に見、夾雑物に手をとられ足をとられ、心まで奪われてついになすべきことをせず、脇道に逸れ、みすみす失格の淵に落ちてしまう。【p.487】

越中守さまにすれば御親族のご対面のみでお説きあそばしております。しかしわれらにとっては主君の生死の問題でございます【p.504】