情報革命バブルの崩壊(山本一郎)

情報革命バブルの崩壊 (文春新書)

情報革命バブルの崩壊 (文春新書)


切り込み隊長の書いた本。ブログの方は私の巡回先で好きな部類に属しているので早速購入して読んでみた。
文体は随分普通になってて残念。良く言えばまとも近づいたというべきか。前著「俺様国家」中国の大経済で、小飼弾あたりに文体を叩かれて気がするから、その影響とかだろうか。
文体はどうでもいいのだけれども、いやある意味文体にも表れるのだけれども、山本氏の近年の大人度の上昇っぷりは半端じゃない。賢い人特有の先が見えてしまったり、仕組みが分かってしまったりすることからくる達観みたいなのが強く出てきてしまっていて個人的には悲しい鴨。若くして老獪さを身につけてしまうのは、それはそれで美学な気がするけれども。ただひょっとすると前のめりな姿勢や若者っぽさみたいなのが減っているのは個人の経験蓄積よりも、不景気ですね、という業界や時代に流れる空気の淀みみたいなものの影響の方が大きいのかもしれない。でもまぁ、山本氏ほどの人物であれば自身の中の人生哲学や投資哲学みたいなものが出来ていそうだから、時代背景とは関係なく若者の饗宴からは一番最初に抜けるタイプなのかもしれない。

さて、書評。

全体を通してネットに対してややネガティブなサイドから語っている。というか、ネットとリアルで切り離されずに、リアルの延長上にネットが存在し、ネットはリアルの手のひらに上に載っていることに気付きなさいというスタンスが貫かれている。

■1章 本当に新聞はネットに読者を奪われたのか
新聞記事自体の価値は失われておらず、ネットで新聞記事をバラ読みしてるだけだよ、Yahooに記事を買いたたかれていて可哀想だね。でも、新聞記事そのものは価値が存在し、価値を失ったのは紙の新聞というパッケージ形態や流通形態なんだ、新聞記事自体の価値を上手く換金する方法考えようね。新聞は今までは誰が読んでる?みたいなユーザー属性とかさっぱりだったけど、新聞記事自体の商品価値が問われる世界では、ユーザー属性を抑えるみたいな初歩的な始めていこう。まぁがんばってくれ。という話。


まぁ、回答なんてないので消化不良になるのは仕方ないのだが、新聞が失ってしまった「新聞紙」というパッケージの代償は相当大きいのではないないだろうか。というか、新聞紙というのは不要な記事もセットで販売したうえでの定価づけだったのだけれども、ネットで記事単位でバラまかれてしまっては人気無い記事には値がつかないことになってしまう。
山本氏は、ユーザーが読む(PV稼げるのは)のは「政治、国際、芸能」だと言っているが、PVだけではだめだろう。もう1歩踏み込んで、どの記事の横のバナーが一番押されるかがポイントになってくる。そこまで考えると、クラウド化する世界の議論にあったように、高尚な政治、文化の記事に比べて、大型薄型テレビ(テレビの販売バナー)や禿げに効く謎の新物質の発見(養毛材バナー)などを扱う記事のウェイトが高くなることは必然である。というか、CTRの悪い政治文化の記事が生き残れるかという話になりそうである。正当なジャーナリズムが発揮される記事のCTRが低い場合、いままでパッケージ新聞紙という形でみんなで負担してた文化的価値の高い記事群のコストは誰が負担するのかという話になる。FACTAの有償で見たいやつだけ金払えというのは微妙だろう。無料でもあまり読まない人が多いのに、ますますみんな芸能記事しか読まなくなるじゃないか。。。まぁ、何も思いつかないので、新聞社は大変ですねという話以外の何物でもない。
新聞広告についていうと、もう単品じゃ売れないからメディアミックスという衣を着せて、セット売りしかないという状況になってる。ただ、ミックスする素材がテレビでは、どっちがメインか不明になるし、そんなに金がないということで、結局はネットと新聞のセット売りが多いようだけど、そんなその場しのぎの施策によって、新聞広告の効果測定がネットのクリックベースでバンバン計測されようとしていて、どう見ても危険な方向に突っ走ってると思えない。


■2章 ネット空間はいつから貧民の楽園に成り下がってしまったのか?
ネットには貧乏人しかいないよね。情報量の増大が、個人の情報処理量を超えてしまっていて、個人の知識の専門家が進んでいますね。それは、ネットでは本書曰く「島」、ありていに言えば「コミュニティ」の乱立に繋がっていて、みんな自分の所属するコミュニティ以外のことには無関心だし、真贋を見分けることもできない状態。そういった状態が土台としてあって、ネットイナゴとかの先鋭化するわけで、ちょっとした芸能人の発言などで炎上するという異常事態を招いてるよねという話し。


これも概ね賛成なのだけど、ネットイナゴや炎上の問題と言うのは別にネット特有でも無いでしょうという気がする。既存の週刊誌やワイドショーなどでも、政治家などを中心にちょっとした失言や揚げ足取りをマスコミが演出し、視聴者が盛り上がって世論形成なんてのはよく見る光景だと思うからだ。ネットがなくても、GMの会長が自家用ジェットで金借りに行ったのは問題になったのは間違いないが、世界的大企業の経営者がエコノミーで飛んでいく方が不自然であって、別に騒ぐことじゃない。
ただ、ネットの方がそういった表面的でどうでもいいことで盛り上がりやすいという傾向はあるだろう。これはやはり、2ch右傾化などに見られるように、コミュニティ(本著では島)が細分化され、仲間内でのみ議論する環境が整ったからだろう。似通った意見を持つ人々を議論させるとどんどん意見が先鋭化していくものである。
逆に言えば、理由はそれだけであり、山本氏があげているような情報量の増大による、個人知識の専門家などはあまり関係ないかもしれない。インターネット上にmixiと2chしか存在しなくても、やはりネットの先鋭化は起こった気がする。本著1章で述べられているように、ネットが登場する前から情報はとっくに溢れていた(新聞を全部読める人など少なかった)のである。アクセス情報量は、とっくに人間の脳の限界を超えていたので、個人にとってみれば情報化前後で受け取る情報量は一定だと言ってもいいだろう。
クラウド化する世界では、ネットを『何マイルもの広がりがありながら、わずか1インチの深さしかない文化だ。』と表現している。これに本著の議論を重ねるなら本書では、「何マイルもの深さがありながら、1インチの広がりしかない文化」ということになるかもしれない。なぜなら興味関心のない分野は深さどころか存在しないも同然だからだ。
こう考えると、ネットの文化というのは、全体の構成としては十分な深さと広がりを持つが、個人からみると隣の穴に関しては地上から1インチの深さしか見ず、自分の属している穴は無限の深さを持っているように見える文化なのだろう。各穴で専門家が進むがそれを有機的に組み合わせることができるのは検索エンジンぐらいという話しかもしれない。
なんかgdgdなので、ちゃんとまとめよう。いつか。


■3章〜5章
このあたりは山本氏の本領発揮という感じで、ふむふむ読んでいた。面白かった。ソフトバンク回りの話はFACTAで読んだような内容とかぶりつつも興味津津。孫さんは憧れる経営者ではあるので頑張ってほしい。
インフラただ乗り論については、Web屋として色々思うところもあったが、疲れたので書評は控える。ただ、現在の無料Webサービスを支えているのは、市場からの資金、広告宣伝費、無料整備される足回り なわけで、そのあたりがグラついてくると、もう無料サービスは出ないのかもしれない。もしくは、無料を維持し続けられる範囲でサービスが出るだけかも。ただ、ネットは無料という環境を人々が甘受し続けたいと思えば、この座組みはづっと続くのだろう。携帯電話の販売奨励金をはじめとした垂直統合ビジネスががいろいろ問題ありながらも生きながらえるのは、消費者に指示されてるからである。結局は、ユーザーに納得してもらえるほど、それこそ小泉さんばりの分かりやすさで引っ張るリーダーが居ないと、インフラ回りの金負担の議論なんてできないだろう。裏で税金を使おうが何をしようが、ユーザー(=国民)がネットは無料だという体を維持したいと望めば、無料のままの気がする。でもまぁ、ぶっちゃけ日本のインフラ回りは、まだそれほど深刻じゃないのでは?と思う。テレビよりPCで動画を見る割合が多くなるとかそういうレベルになった時の議論の気もする。それが近いのかもしれないけれども。

クラウド化する世界(ニコラス・G・カー)

クラウド化する世界~ビジネスモデル構築の大転換

クラウド化する世界~ビジネスモデル構築の大転換


一部と二部で大きくわかれている。一部はGoogleAmazonSalesForceなどのクラウドコンピューティングサービスを展開する先進企業群がどんなサービスをやっているかという紹介をしつつ、コンピューティングのインフラ化を過去の電力のインフラ化になぞらえて説明している。クラウドコンピューティングの説明と電力の普及の対比は分かりやすく面白い。とくに、私個人は電力業界もエジソンの会社のやったこともさっぱり知らなかったので、電力業界史としても興味深かったし、現在のIT業界の動きをうまく説明できていた。サラっと読む感じが良しかと思う。
二部は、一部で書いてあったクラウドコンピューティングが個人、企業、政府、民主主義など社会広範にどういった影響を及ぼすかについてネガティブサイドから書かれている。梅田望夫氏の展開するパラダイスな世界とは異なる世界像が展開されており、バランスを取るためにもヒッピーライクなインターネット楽観主義の人にとっては必読ではないだろうか。
私自身は、中長期的にはインターネットによる個人へのパワーシフトを信じつつも、個人のパワー束ねてマネタイズするビジネスマンとしての信条もあり、個人の力を全く関係ない(個人が望んでない)企業収益に変換するという時点で、個人を凌駕するポジションからの施策を立案してるわけであり、なかなか難しいポジション。本当に全てのパワーが個人にシフトしてしまえば、企業がネットで出来ることなど、ほとんど何もなくなってしまうのだろうから。

旧来の工業化時代には巨大な発電所が電力を供給したように、我々の情報化時代においてはコンピュータプラントが動力を供給するのだ。この最新の発電機がネットワークに接続して、企業や家庭に膨大な量のデジタル化情報やデータ処理能力を供給するようになるだろう。【p.7】

何より難しいのは、大企業に自社のシステムを管理・運営することをあきらめさせて、多額の資金を注ぎ込んだデータセンターを解体させることだ。【p.73】

新技術の変革力の本質は、経済的選択肢を変化させることにある。多くの場合、経済的選択肢は認識されることもないまま、大なり小なり、我々が下すさまざまな決定に影響を及ぼす。そうした決定が積み重なって、教育、住居、仕事、家庭、娯楽など、我々の存在と行動にかかわる基本が決定されるのである。要するに、安価な電気を中央から供給することが日常生活の経済を変えたのである。かつては不十分だったエネルギー −すなわち、産業機械に動力を与え、家庭用機器を動かし、照明に光をともすためのエネルギーが潤沢になったのである。まるで巨大なダムが決壊したかのような勢いで、産業革命の最大限の力が解放されたのだ。【p.104】

確かに、コンピュータとインターネットは、人々が自己を表現し、自分の作品を多くの観衆に配信し、さまざまな"モノ"を協力し合って製作するための、新しい強力なツールを与えてきた。しかし、こうした主張には単純に過ぎる、あるいは少なくとも近視眼的な側面がある。このユートピア的なレトリックは、市場経済が急速にギフトエコノミーを取り込みつつあるという事実と合致しない。 〜中略〜 さまざまな企業が、インターネット上で贈り物をする多くの人々を、世界規模の割安な労働力源として利用している。【p.169】
※原文では太字協調は無いです。

もしニュース産業が時代の流れを暗示しているとしたら、我々の文化から淘汰される運命にある"石屑"には、多くの人々が「優れたもの」と判断するような産物も含まれてしまうだろう。犠牲になるのは、平凡なものではなく、質の高いものだろう。ワールドワイドコンピュータが作り出した多様性の文化は、実は凡庸の文化であることがいずれわかるだろう。何マイルもの広がりがありながら、わずか1インチの深さしかない文化だ。【p.187】

この種のツールによって形作られたオンラインコミュニティは、物理的に近い人間関係によって形成されるコミュニティよりも、結局のところ、多様性に乏しいのである。「分化した複数のコミュニティが、地理的境界を超えて合体するにつれて」、物理的的世界の多様性は「仮想世界の均質性に取って代わられるだろう」【p.194】

コンピュータシステムは一般的に、そしてインターネットは特に多大な力を個人に与えるが、その個人をコントロールしている企業、国家、その他の機関にはもっと大きな力を与えているのである。コンピュータシステムは、根本的に人間解放のテクノロジーなどではない。それはコントロールのテクノロジーである。【p.228】

「ネットワークとは、それが神経、コンピュータ、言語もしくはアイデアであれ、明確に規定される必要のない問題に対する、探しあてられることを自ら望んでいる回答を含有している」ものであることを、グーグルの技術者たちは理解している。【p.228】

なぜ投資のプロはサルに負けるのか?(藤沢数希)

投資のお話の基本的な事柄が書いてある本。
本書で言うところのファイナンシャルリテラシーが低い人々は読んだら良いかなと思う。
身も蓋もないことが書いてあるけれど、テンポ良い文章で投資の考え方を説明してくれてる。
内容自体は、単位スレスレとはいえ市場主義万歳系大学の経済学部出の私でも知ってるモノなので理解に苦しむところはない。
小学校とか中学校の教科書とかになれば面白そうだなという印象である。
ちなみに、私は本書を理解しつつ、ファイナンシャルリテラシーが低い行動を取り続けるのだけれど、それは私がシグリナング効果を重視しているから仕方ない。。

グーグルに勝つ広告モデル マスメディアは必要か (岡本一郎)

グーグルに勝つ広告モデル (光文社新書)

グーグルに勝つ広告モデル (光文社新書)

ネット広告の市場規模が4000億弱まで膨らんだ現在の広告業界を、いくつかの視点に基づいて奇麗にロジカル整理している良書。
その視点とは、たとえば以下のような視点である。
1.アテンションの仕入/卸売という概念
2.可メディア消費時間<現存コンテンツ量
3.マス/ターゲット、情緒性/論理性の4象限
4.提供情報、情報消費シチュエーション、アクセススタイル
このあたりのフレームワークを使いながら、現在の広告業界を整理した上で、4マスメディアそれぞれの生き残り戦略を提示していく。上記のフレームワークが非常によくできている(軸の切り方が上手い)ので、現状をいくつかの視点で整理するという意味では有意義である。さらに文体も、硬すぎ柔らかすぎずの読んでいて面白い文体であり、通勤電車の中で読むには最適ではないだろうか。
また、いわゆるネット広告最高!マスメディアおわた的な著書は、ネット側の視点から書かれたものが多い。しかし本書はあくまでも、マス側からの視点で書かれている点が非常に興味深い。マスに対してのコンサルによる戦略提示というスタイルだからこそ、鮮やかな現状分析ができているのだろう。これが、ネット側からの著書であればイケイケドンドンで終わりだし、マス側からであれば「ネットはゴミ・俺が神」とか「ネット強すぎ、マスもうダメぽ」で終わってしまっただろう。追い詰めらつつあるマス側に対して、第3者の引いた視点で戦略提示するという絶妙のポジションだからこそ本書があると思われる。
個人的に読んでいて、「ガツン」ときた指摘は以下ふたつ。
ひとつは、「ラジオを聴く若者が80年代半ば以降減ってきているにも関わらず、経営上のインパクトとして出てきたのは最近」というくだりである。PCを使わず、携帯ですべてを済ませる若者が多いわけだが、、PCWebは大丈夫だろうか。ひょっとすると、10年後にPCWebも構造問題を抱える恐れがあるのではないだろうか。
もう一つは、現在のビジネスは「マーケットインではなく、プロダクトアウトではなく、メディアアウト」であるという指摘だ。これには、唸るものがあった。たしかにサービスや商品を流通させていく際には、無意識にマスメディアを念頭に置いており、それが故に商品もマスプロダクトになってしまう。メディアがターゲットされていればエッジの効いた商品が生まれる可能性もあるのかもしれない。この部分についてはこっちのブログで少し考えてみた。

一方、不満な点は、上記フレームワークの1個1個はロジックがしっかり組まれていて堅固なのだが、各フレームワーク有機的に繋がっていない感触を受けるのである。1〜5それぞれは独立して成立しているが、各フレームワークについて1歩吟味し、さらに繋げてみると、なんだか全体としてはハッキリしない感じになるという気がする。

書評から離れてしまうが、、なんというか、各章は良くできているが、全体としてはぼやけてしまう、、というのはパワポ依存のコンサルの職業病のような気がするがどうだろうか。まずパワポ全体のストーリーを考え、それを各章にブレイクして目次を決める。そして各章(パワポ)を書いていく、各資料にはそれを裏付ける数値を膨大に盛り込む。ただ、各章を仕上げていく過程で、思考の深さが全体のストーリーを構成したときよりも深いところにいってしまうのだ。各章のクオリティが全体のストーリーのクオリティを超えてしまうのである。その結果、各章をばらばらに読むと高い精度でロジックが引かれているが、全体としては意味が少しぼやけてしまうという感じではないだろうか。全体として奇麗なピラミッド(考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則)になっていなくて、それぞれが突き抜けてしまっており、結果として形がとても歪になっているというか。そんな印象を受けた。



マーケティングの側面から考えてみると、一般的に市場の立ち上がりの時期は、理性的・説得的な情報、つまり数値や物理的な特性をしっかりと訴求することがマーケティング上の課題になってきます。他社との商品の違いを、数値や文字で伝達することが求められるわけです。
これが成長期をへて成熟期になってくると、商品の特性上の違いはあまりなくなってきます。そこでは物理的な性能や数値よりも「情緒的な価値」が重要になってきます。つまり産業が成長し成熟化していく過程で、コミュニケーションのニーズはマップの下から上へ移動していく、ということです。【p.37】

今現在、多くのマーケッターの方が、商品の差別化に苦しんでいます。機能面での大きな差異が打ち出しにくく、価格も収斂しているので、情緒的・感覚的な側面で差別化をしないといけない。
しかし一方で、情緒的・感覚的な情報を伝達できるメディアは、ターゲッティングが基本的にできないテレビメディアでしかない。
多くのマーケッターの方はこのジレンマを封じ込めるために、最大公約数的な商品企画を行ってマス媒体で売る、という方法論に陥ってそこから抜け出せなくなっているわけです。
その結果が、シャープなコンセプトを持たない横並び商品と、意味の変容をもたらさない陳腐な広告の大量発生です。【p.45】

非常に恐ろしいのは、子供部屋におけるアテンションのシェアが奪われているということが、経営上インパクトの大きい数値としてすぐには出てこなかった、ということでしょう。変化が表面化したときには、すでに致命的な構造的問題になっていた、というのがこの問題の難しさです。【p.96】

情報は断片的に生み出されて編集され、プラットフォームに乗せる形に変換されて流通し、最後に貨幣と交換されるという、「知のバリューチェーン」ともいうべき経済システムの中で生み出されています。
ウィキペディアは、グーテンベルクからグーグルが登場するまでの「旧世界」がずっと発展させてきたこの「知のバリューチェーン」から、無料で情報という栄養をもらってコンテンツを拡充するという寄生虫のような構造で肥大化しています。
ここで問題になるのは、ウィキペディアがフリーであるがゆえに、強大な普及力を有しているという点です。そのため「知のバリューチェーン」を循環する経済価値が減少し、ウィキペディアが循環的に依存していた「信用できる」情報源が、事業運営上の深刻な困難を迎える可能性があるのです。【p.155】

旧世界の戦略論では、一度失敗したビジネスに関してはその原因を分析して同じ轍を踏まないようにする、というのが対応策でした。しかし、ムーアの法則(半導体の集積度が18か月で倍になるという経験則)が成立する現在では、事業の成否を分ける要素として、タイミングの重要性が高まってきます。
つまり、失敗の理由は「早すぎた」か「遅すぎた」かのどちらかで、早すぎた場合は次にいつ出すか、が問題になる、ということです。【p.170】

アッシュの実験結果で非常に興味深いのは、消費者の態度変容は情報のシェアに対してリニアに反応するのではなく、図17が示すように、ある閾値を超えたところで急激に転換を起こすという点です。【p.183】

ところが、昨今の日本におけるビジネスプランニングのプロセスをよく見てみると、実際のマーケティングはそのどちらでもなく、プロダクトとマーケットの間をつかさどるメディアや流通の枠組みに規定されてしまっています。いわば「メディアアウト」というパラダイムに縛られてしまっているのです。【p.189】

Googleを支える技術 (西田圭介)

Googleを支える技術 ?巨大システムの内側の世界 (WEB+DB PRESSプラスシリーズ)

Googleを支える技術 ?巨大システムの内側の世界 (WEB+DB PRESSプラスシリーズ)

非技術者の私にもGoogleの技術力の凄さがイメージできる良書であった。情報系大学3年生ぐらいを対象とのことだが、実務でシステム開発を行った人間であれば問題ないだろう。本書を読むことで分かったGoogleの凄さは、Google社員でない私からすると恐ろしさであり、戦いづらさだが、それは主に2点だ。1点目は、巷で言われているとおりのファイルシステムからDBまでを自前の巨大分散処理技術で実装する圧倒的な技術力。2点目は、膨大なデータを元にしたFactの把握と最適解を確実に打っているだろう仕事のやり方である。
1点目の解説自体は本書を読むべきだろうし、私が語っても無理解から誤る可能性が高いので是非本書を読んでもらいたい。
2点目は、本書に散りばめられているGoogle論文から引用された調査結果の数々である。Googleにとって電気代が大きなコストなのは理解できるが、電気代削減のためにマザーボード、CPUまで遡って原因を訴求し、あげくは電源を自前で作るところまで持っていく、圧倒的なFactの積み上げかたである。学者気質だからこそできる原因追究への執着であろう。さらに、そこからは純粋に理系な頭でロジックの積み上げたうえでうち手が決定される。
電源自体の機能は市販のものより劣る(本書参照)ので、ここで問題なのはHWに関する技術力ではない。どの企業でもやろうとしている、課題設定・原因追究・打ち手の決定・実行・効果測定という当たり前のプロセス。これを電気代を減らすという課題に対して、電源装置を自前で作るという解まで持ってこれる企業は多くないだろう。当たり前のことをここまで執念深く深くやれるという点が恐ろしいのだ。膨大なデータ解析に基づく打ち手の決定という意味では、このCNETの記事もGoogleのそういった本質的強みの事例であろう。検索サイトの舞台裏--グーグル幹部が明かす改善手法
一方で、弱点のようなものも見える。それは、Googleがミッションクリティカルなシステムを構築が苦手だろうということだ。Googleの分散技術は、データが失われる、HWが壊れることを前提として構築されている。復旧は恐ろしく速い。しかし、それでもデータが失われることを前提としており、失われている時間が20分か、1時間か、3日かに関わらずデータを消失してしまうアーキテクチャである以上、金融などのミッションクリティカルなシステムはGoogleが本質的に苦手とするところであろう。こんな事件は、顧客の決済口座アカウントでは許されないからだ。もちろん、銀行の基幹システムでもデータセンターが3箇所ぐらい一気に爆破されればデータは吹っ飛ぶかもしれないが、その設計思想としてデータ消失は許されないものとして構築されている点が重要だと思うのだ。GoogleアーキテクチャはあくまでもWeb的思想のベストエフォート感が強い。また、こちらのブログではGoogleトランザクションを捨てたという点について言及されていて、私の浅薄な議論よりよほど本質を突いているのでお勧めである。


技術系の著書なので引用は避け、本書に明記されていた出典元の論文を列挙する。本書は下記10本の論文を私のように知識の浅い人間にも分かるように平易に説明してある。
巷で言われているGoogleの技術の何が凄いか?を知りたい人々は手にとって損はない1冊である。下記10本の論文の中身を一気に掴みとれるというだけでも、私のような非技術者には垂涎の一冊だろう。

Web Search Engine論文
「The Anatomy of a Large-Scale Hypertextual Web Search Engine」(Sergey Brin/Lawrence Page著、Computer Networksm Vol.30(1998),p.107-117)
http://infolab.stanford.edu/~backrub/google.html

GoogleCluster論文
「Web Search for a Planet: The Google Cluster Architecture」
Luiz Barroso, Jeffrey Dean, and Urs Hoelzle
http://labs.google.com/papers/googlecluster.html

GFS論文
「The Google File System」
Sanjay Ghemawat, Howard Gobioff, and Shun-Tak Leung
http://labs.google.com/papers/gfs.html

BigTable論文
Bigtable: A Distributed Storage System for Structured Data」
Fay Chang, Jeffrey Dean, Sanjay Ghemawat, Wilson C. Hsieh, Deborah A. Wallach, Mike Burrows, Tushar Chandra, Andrew Fikes, and Robert E. Gruber
http://labs.google.com/papers/bigtable.html

Chubby論文
「The Chubby Lock Service for Loosely-Coupled Distributed Systems」
Mike Burrows
http://labs.google.com/papers/chubby.html

Paxos Made Live論文
「Paxos Made Live An Engineering Perspective」
Tushar Chandra, Robert Griesemer, and Joshua Redstone
http://labs.google.com/papers/paxos_made_live.html

MapReduce論文
MapReduce: Simplified Data Processing on Large Clusters」
Jeffrey Dean and Sanjay Ghemawat
http://labs.google.com/papers/mapreduce.html

Sawzall論文
「Interpreting the Data: Parallel Analysis with Sawzall」
Rob Pike, Sean Dorward, Robert Griesemer, Sean Quinlan
http://labs.google.com/papers/sawzall.html

Power Provisioning論文
「Power Provisioning for a Warehouse-sized Computer」
Xiaobo Fan, Wolf-Dietrich Weber, Luiz Andre Barroso
http://labs.google.com/papers/power_provisioning.pdf

Disk Failure論文
「Failure Trends in a Large Disk Drive Population」
Eduardo Pinheiro, Wolf-Dietrich Weber, Luiz Andre Barroso
http://research.google.com/archive/disk_failures.pdf

ウィキノミクス(ドン・タブスコット、アンソニー・D・ウィリアムズ)

ウィキノミクス

ウィキノミクス

随分と前に流行した本だがやっと手にとった。だがしかし、、274ページ目まで読んだところで余りに退屈で挫折した。。Web業界に居ない人々にとっては新鮮な考え方なのだろうが、Web屋で働く私にとっては目新しい考え方は見当たらない。
唯一良いのは、Wiki的考え方での成果事例が豊富に書いてあることだ。本書で言うところの、「マスコラボレーションによる開発生産」の成果事例集としては良書である。特にそれらの成功事例がWeb企業ではなく従来型企業で実現された事例が多くあり、泡沫のWeb企業の饗宴ではなく、本丸の大企業群にとっても無視できない流れであることが示されている。
しかしながら、個人的には本書を読むのであれば、「経営の未来」を読むことをお勧めしたい。「経営の未来」は断片的な事例の収集にとどまらず、ここの事象をマネジメントという横串で貫いている分読み応えがあり、学びがあると思う。この著書のラストは、本書の続きをWeb上のWikiを通じて皆で編集していこう!ということになっている。しかしながら、Wikiの方はどうも盛り上がっているように見えない。。とりあえず、ブログRSSフィードを取ることにしたが、FastLadderでの購読者も微々たるものだった。FastLadder自体がマイナーというのもあるだろうが。。


従来、人々の大半は、大量生産された製品を消費するだけ、硬直的な組織で上司に言われたことをするだけなど、経済において限られた役割しか果たせなかった。選挙で選ばれた議員でさえ、ボトムアップの意思決定にいい顔をしないものである。一言で言えば、ほとんどの人は循環する知識、権力、資本の輪から外れており、経済世界の片隅にやっと引っかかったような参加しかできなかったのだ。p.19】

世界的な競争力をもつためには、事業環境を国際的に観察するとともに世界中の才能を活用する必要がある。新しい市場やアイデア、技術を手にするためには、グローバルな連携、人材市場、ピアプロダクション・コミュニティを利用する。人材も知的財産も、文化や専門、組織といった境界をまたぐ形で管理する必要がある。市場を知り、技術を知り、人を知って世界を把握した企業が勝利するのだ。それらを把握できなかった企業は大きなハンディキャップを背負うことになり、現在の基準では理解できない新しい事業環境で戦うことさえできない。【p.47】

委譲の四本柱(オープン性、ピアリング、共有、グローバルな行動)は、次第に、二十一世紀の企業が競争するやり方として広がりつつある。これは、前世紀を席巻した多国籍企業、階層的で閉鎖的、秘密主義で島国根性に満ちた多国籍企業とは相容れないものである。【p.50】

いまはまだ経済的・組織的な変化が始まったばかりだが、既存勢力に時間的猶予はないと考えるべきだ。硬直的な「計画・実行」方の考え方は急速に古くなり、ダイナミックな「参加・協創」型経済が台頭しつつある。【p.51】

今のウェブは、アーキテクチャーもアプリケーションも根本的に変化した。デジタル新聞ではなく共有キャンパスであり、だれかが描いたものを次の人が書き換えたり改善したりしていくと考えればいい。何かを創る場合でも他人と何かを共有する場合でも、あるいは友人をつくる場合でも、新しいウェブは基本的に参加型であり、受身で情報をもらうものではない。【p.62】

なお、自信にあふれた世代ではあるが、将来に対する不安ももっている。ただし、不安の源は自分の能力ではなく、自分たちの前に広がる大人の世界であり、自分たちのチャンスがそこにないかもしれないという思いである。
研究では、この世代は、プライバシーに対する権利や、自分の意見を有しそれを表明する権利など、個人的な権利を重視する傾向が強いという結果も得られた。そのため思春期以降、国家や両親による検閲に反発することが多い。また、公平に扱われることを望み、「自分が生みだす価値は自分も分け前にあずかるべき」といった気風ももつ。【p.77】

ネット世代の労働観はイノベーションを内包している。新しいものを求める。新しいアイデアを受け入れる。人生のあらゆる側面において多様性を信じる傾向が強い。自由を求める気持ちが強く、いままで人が踏み込まなかった領域まで進む。さまざまなデータから、ネット世代は、各自が権限をもってコラボレーションする職場環境、仕事と私生活のバランスがとれ、特に楽しさを重視する職場環境を強く求めると思われる。楽しさ重視の姿勢は、職場にエンターテイメント的な価値をもたらしてくれるだろう。また、真正性重視の姿勢は、不純な目的で「社内用語の使用」を押し付けてくる上の世代への抵抗をもたらすが、同時に、ネット世代の新しい要求に対応できた企業には競争力と革新に関する膨大な資源をもたらす。逆に対応できなかった企業は脇に押しやられ、労働力の更新もできずにネット世代がほかへ流れるのを指をくわえて見送ることになる。【p.88】

ヘンリー・フォードやアルフレッド・P・スローン・ジュニアが巨大企業を同じような形で動かしているのに、ひとつの巨大企業のようにソビエト連邦を運営したスターリンは間違っていたなどと、どうして言えるのか分からなかったのだ。需要と供給のマッチングを図り、価格を決定し、有限の資源から最大の効用を得る機構として理論的に最も優れているのは市場だ。そうであるなら、万人単位で集まって企業を構成するより、個人一人ひとりが販売者となり購入者となるほうがいいはずなのに、そうしないのはなぜなのか・・・。
コースは、一見、矛盾しているように見える垂直統合の企業構造にも、実は理由があると考えた。大きな理由として、情報のコストがある。パンを焼く、車を組み立てる、病院の救急室(ER)を運営する・・・いずれも、役立つ結果を得るためには、さまざまなステップで緊密な協力と共通の目的意識が必要となる。製造をはじめとする事業プロセスを細かい取引に分解し、それぞれについて個別交渉を行うという形を毎日行うことは非現実的なのだ。競争原理によるメリットは得られるかもしれないが、取引ごとに発生するコストの総額のほうが大きくなってしまう。
まず、探すコストがかかる。サプライヤーを探し、その商品が適切であるかどうかを判断するコストだ。次に、価格や契約条件の交渉といった契約コストがかかる。さらに、さまざまな製品とプロセスを上手に組み合わせるための調整コストがかかる。これらのコストをコースは「取引費用」と呼んだ。こうしていろいろ考えると、できるだけ多くの機能を社内で実現したほうがいいという結論に大半の企業は達したのだ。
ここから、我々が「コースの定理」と呼ぶものが導かれる。企業は、基本的に、新しい取引を社内で行うコストがオープンな市場で行うコストと等しくなるまで規模を拡大していく。社内の方が安上がりなら社内でやれ、市場で調達したほうが安上がりなら社内でやろうとするな、というわけだ。
インターネットの登場によってコースの定理にどのような影響があっただろうか。定理の正当性はまったく揺らいでいない。それどころか、インターネットの登場で取引費用が急低下した結果、コースの定理の有用性はむしろ高まったと言える。ただし、定理の読み方は逆向き。つまり、社内で取引を行うコストが社外コストを超えないレベルまで、企業は規模を縮小すべきなのだ。取引費用はいまも存在するが、市場よりも社内のほうが重荷になることが増えたというわけだ。【p.90】

ピアリングが機能するためには三つの条件が成立しなければならない。
一.生産物が情報や文化であること。これは、貢献者の参加コストを抑えるために必要な条件である。
二.全体を小さな部分に分割し、百科事典の項目やソフトウェアのコンポーネントなどのように、個人が少しずつ、他の部分とは独立に貢献できる形でなければならない。これは、一定のリターンを得るために投下する時間やエネルギーを最小に抑えるために必要な条件である。
三.こうして得られた部品を組み上げて最終成果物にするコスト(リーダーシップや品質管理を含む)が小さくなければならない。
【p.112】

ノウハウと知的財産の市場が発達したとき、競争力は、知的資産を生み出し、移転し、組み立て、統合し、活用するという総合力の勝負になる。すぐれた技術をもつだけでは競争にならない。ほとんどの技術は、少しの時間と努力でどうにかなるからだ。【p.188】

技術者は、スラッシュドットとディグ、どちらのモデルがすぐれているかと、よく議論する。スラッシュドットは記事の質が高く、技術的に高度な議論が行われることで有名である。一方、ディグは、速報性にすぐれることと記事の量が多い(一日、数千もの記事が投稿される)ことで知られる。【p.232】

新しいウェブは、科学の世界を次のような特徴をもつ、コラボレーションによるオープンな活動にしようとしている。
・ベストプラクティス(成功事例)の技術と標準がすばやく普及する。
・技術のハイブリッドや組み換えを促進する。
・研究に必要な専門知識とパワフルなツールが「ジャスト・イン・タイム」で手に入る。・産学ネットワークの動きが速く、公共知が私企業にすばやくフィードバックされる。
・科学的な知識やツール、ネットワークのオープン性が高まるなど、研究と革新のモデルにおいて水平性・分散性が高まる。【p.250】

なぜ、競争に勝てば確実に利益を手にできるのに、コラボレーションをするのだろうか。価値のある情報をパブリックドメインにおくのだろうか。コンソーシアムにだけ公開すればいいのではないのか。メルクの遺伝子インデックスの場合と同じように、価値はあるが自社のコアではない情報を公開することには、妨害としての価値があるのだ。【p.268】

今日の芸術(岡本太郎)

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

私は本書を読むまで岡本太郎氏にはそれほど関心がなかった。「芸術は爆発だ」と万博のヘンテコな塔のイメージしかない。しかし、本書を読んでまったくイメージが変わった。1950年代に書かれた著書とは全く思えないぐらいにスンナリと心に入る内容なのだ。本書に出てくる「芸術」や「絵画」という言葉を、ビジネスやプログラミング、Webという言葉に置きかえれば、現代の最新のビジネス書として出版されていても全く違和感がない。時代が50年を経て岡本太郎氏に追いついたのか、それとも労働が肉体労働から知識労働(創造労働)に変遷する中で、芸術について書いた内容がビジネスとクロスオーバーしたのか。新しいビジネス、付加価値、イノベーションを求める全てのビジネスマンは、本書を読むことで勇気と行動力を得られる。本書は、創造的な仕事をしようとする人間の背中をグイと強く後押ししてくれる力を持った本である。

すべての人が現在、瞬間瞬間の生きがい、自信を持たなければいけない、そのよろこびが芸術であり、表現されたものが芸術作品なのです。そういう観点から、現代の状況、また芸術の役割を見かえしてみましょう【p10.】

電気冷蔵庫を置いたり自家用車をもって、生活が楽になる。そんないわば、外からの条件ばかりが自分を豊かにするのではありません。他の条件によってひきまわされるのではなく、自分自身の生き方、その力をつかむことです。それは、自分が創り出すことであり、言いかえれば、自分自身を創ることだといってもいいのです。
だが、どうやって?
それをこれからお話ししようと思います。私はそこに、芸術の意味があると思うのです。それは現代社会においてこそ、とくに必要な、大きな役割として、クローズアップされています。それは一言でいってしまえば、失われた人間の全体性を奪回しようという情熱の噴出といっていいでしょう。【p.21】

よほど、正直に判断しているつもりでも、また芸術についてべつだん考えたこともないから、偏見だとか固定観念などもっていないと思っても、じつは大人になるまで目にふれ耳にしてきたすべてが、知らずしらずのうちに、膨大な知識・教養になっているのです。それらは、物ごとにたいして目をひらく力にもなっています。しかしその反対に、ものを自分の魂で直接にとらえるという、自由で、自然な直観力をにぶらせていることもたしかです。【p.22】

つまり、つねに若い世代は古い権威を打ち倒し、それにとって代ろうとする。古い側は、おのれを守るために、この伸びてくる新しいものを危険視し、押しつぶそうとするのです。たとえ、そのような敵意を意識していないとしても、おたがいの無理解は運命的です。【p.49】

現在しぶい顔をして、そんな文句を言っている人でも、かつて若かったころには、自分の親父とか先輩などに、さんざんそう言って罵られてきたにちがいないのですが、そのくせに、こんど自分の番になると、やはり同じような言葉づかいで、新しく出てくるものをさまたげようとしています。自分では、正直に良心的に、むしろきわめて好意的に判断しているつもりでも、新しくおこってきたものが危険に見えてしかたがないものです。
ところで、そこが問題です。新しいものには、新しい価値基準があるのです。それが、なんの衝撃もなく、古い価値観念でそのまま認められるようなものなら、もちろん新しくはないし、時代的な意味も価値もない。だから、「いくらなんでも、あれは困る」と思うようなもの―自分で、とても判断も理解もできないようなものこそ、意外にも明朗な新しい価値をになっている場合があるということを、十分に疑い、慎重に判断すべきです。【p54.】

どんなに今日正統と考えられているものでも、ながい流行の歴史のなかの一コマにすぎないのです。流行をつねにのりこえて、もっと新しいものを作るという意味で、移りかわるというのならよいのですが、どうせ移っていくものだからとバカにして、否定的に、歴史をあとにひきもどすような、つまらぬことばかり言うのは卑劣です。【p.66】

ほんとうの芸術は、時代の要求にマッチした流行の要素をもっていると同時に、じつは流行をつきぬけ、流行の外に出るものです。しかも、それがまた新しい流行をつくっていくわけで、じっさいに流行を根源的に動かしていくのです。【p.91】

まことに芸術はいつでもゆきづまっているのです。ゆきづまっているからこそ、ひらける。そして逆に、ひらけたと思うときにまたゆきづまっているのです。そういう危機に芸術の表情がある。【p97.】<< 

絵画は万人によって、鑑賞されるばかりでなく、創られなければならない。だれでもが描けるし、描くことのよろこびを持つべきであるというのが、私の主張です。【p115.】

アカデミックな技術の点では、セザンヌはやっぱり才能があるとは言えないのです。【p.136】

しかし、このように下手な絵かきが、どうしてあれだけすぐれた芸術をつくりあげることができたのでしょうか。【p.137】

芸術が特殊技能をもつ名人にしかできないものではなくなくなって、だれでもが作れる、ほんとうに幅ひろい、自由なものに変わってきた、その点にこそ革命の実体があるのです。だが、「だれでもが作れるものになった」と言っただけでは、まだ不十分です。私はもう一歩これを進めて、これからは、「すべての人が描かなければならない」と主張します。専門家、門外漢、しろうと、くろうとなんて区別は現代芸術にはありません。人間的に生きることに「専門家」がいないと同じように、すべての人が、創造者として、芸術革命に参加するのです。夢物語だと思ってはいけない。すでに、その段階に達しつつあるのです。【p.137】

「芸術は、決意の問題だ」と、前にお話しましが、決意さえすれば、その精神力で技術が支えられる。だから、あなたも今日ただいまから、芸術家になることが可能なのです。【p.224】

古い権威とたたかいつづけながら、孤立無援でいるとき、私はふと絶望的にその背景を思い出すことがあります。個人個人に会ってしたしく話をすると思いのほか純粋で、情熱的に、「やらなくちゃいけない。あなたのような人こと大事なんだ」という。しかし、ほんとうに社会的に、効果的に発言し、力をあわせた人が、いったいあったでしょうか。こちらが公認されるまではおそらく、けっして危険なコトアゲはしないでしょう。きわめて誠実に、そして謙虚に、みんな時機を待っているのです。【p.240】

一九五三年、パリとニューヨークで個展をひらきました。出発するまえ、私はある場所で講演をしたのですが、いろいろ話をしたあとで、聴衆の一人から、「こんどあちらへ行かれて、何を得てこられるでしょうか?」という質問が出ました。「いや、こちらが与えにゆくんです」と、私が返事をしたら、満場がドッと笑いました。私はきわめてマジメに言ったのに、意外にも大笑いされて腹立たしくなりました。外国に行くといえば、何か得てくる、目新しいおみやげを持って帰るだろうと、まったく疑いもしないできめてかかる日本人の根性は、文明開化以来の卑屈な劣等感なのですが、今日の若い人たちは、どうなのでしょう。【p.240】