今日の芸術(岡本太郎)

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)

私は本書を読むまで岡本太郎氏にはそれほど関心がなかった。「芸術は爆発だ」と万博のヘンテコな塔のイメージしかない。しかし、本書を読んでまったくイメージが変わった。1950年代に書かれた著書とは全く思えないぐらいにスンナリと心に入る内容なのだ。本書に出てくる「芸術」や「絵画」という言葉を、ビジネスやプログラミング、Webという言葉に置きかえれば、現代の最新のビジネス書として出版されていても全く違和感がない。時代が50年を経て岡本太郎氏に追いついたのか、それとも労働が肉体労働から知識労働(創造労働)に変遷する中で、芸術について書いた内容がビジネスとクロスオーバーしたのか。新しいビジネス、付加価値、イノベーションを求める全てのビジネスマンは、本書を読むことで勇気と行動力を得られる。本書は、創造的な仕事をしようとする人間の背中をグイと強く後押ししてくれる力を持った本である。

すべての人が現在、瞬間瞬間の生きがい、自信を持たなければいけない、そのよろこびが芸術であり、表現されたものが芸術作品なのです。そういう観点から、現代の状況、また芸術の役割を見かえしてみましょう【p10.】

電気冷蔵庫を置いたり自家用車をもって、生活が楽になる。そんないわば、外からの条件ばかりが自分を豊かにするのではありません。他の条件によってひきまわされるのではなく、自分自身の生き方、その力をつかむことです。それは、自分が創り出すことであり、言いかえれば、自分自身を創ることだといってもいいのです。
だが、どうやって?
それをこれからお話ししようと思います。私はそこに、芸術の意味があると思うのです。それは現代社会においてこそ、とくに必要な、大きな役割として、クローズアップされています。それは一言でいってしまえば、失われた人間の全体性を奪回しようという情熱の噴出といっていいでしょう。【p.21】

よほど、正直に判断しているつもりでも、また芸術についてべつだん考えたこともないから、偏見だとか固定観念などもっていないと思っても、じつは大人になるまで目にふれ耳にしてきたすべてが、知らずしらずのうちに、膨大な知識・教養になっているのです。それらは、物ごとにたいして目をひらく力にもなっています。しかしその反対に、ものを自分の魂で直接にとらえるという、自由で、自然な直観力をにぶらせていることもたしかです。【p.22】

つまり、つねに若い世代は古い権威を打ち倒し、それにとって代ろうとする。古い側は、おのれを守るために、この伸びてくる新しいものを危険視し、押しつぶそうとするのです。たとえ、そのような敵意を意識していないとしても、おたがいの無理解は運命的です。【p.49】

現在しぶい顔をして、そんな文句を言っている人でも、かつて若かったころには、自分の親父とか先輩などに、さんざんそう言って罵られてきたにちがいないのですが、そのくせに、こんど自分の番になると、やはり同じような言葉づかいで、新しく出てくるものをさまたげようとしています。自分では、正直に良心的に、むしろきわめて好意的に判断しているつもりでも、新しくおこってきたものが危険に見えてしかたがないものです。
ところで、そこが問題です。新しいものには、新しい価値基準があるのです。それが、なんの衝撃もなく、古い価値観念でそのまま認められるようなものなら、もちろん新しくはないし、時代的な意味も価値もない。だから、「いくらなんでも、あれは困る」と思うようなもの―自分で、とても判断も理解もできないようなものこそ、意外にも明朗な新しい価値をになっている場合があるということを、十分に疑い、慎重に判断すべきです。【p54.】

どんなに今日正統と考えられているものでも、ながい流行の歴史のなかの一コマにすぎないのです。流行をつねにのりこえて、もっと新しいものを作るという意味で、移りかわるというのならよいのですが、どうせ移っていくものだからとバカにして、否定的に、歴史をあとにひきもどすような、つまらぬことばかり言うのは卑劣です。【p.66】

ほんとうの芸術は、時代の要求にマッチした流行の要素をもっていると同時に、じつは流行をつきぬけ、流行の外に出るものです。しかも、それがまた新しい流行をつくっていくわけで、じっさいに流行を根源的に動かしていくのです。【p.91】

まことに芸術はいつでもゆきづまっているのです。ゆきづまっているからこそ、ひらける。そして逆に、ひらけたと思うときにまたゆきづまっているのです。そういう危機に芸術の表情がある。【p97.】<< 

絵画は万人によって、鑑賞されるばかりでなく、創られなければならない。だれでもが描けるし、描くことのよろこびを持つべきであるというのが、私の主張です。【p115.】

アカデミックな技術の点では、セザンヌはやっぱり才能があるとは言えないのです。【p.136】

しかし、このように下手な絵かきが、どうしてあれだけすぐれた芸術をつくりあげることができたのでしょうか。【p.137】

芸術が特殊技能をもつ名人にしかできないものではなくなくなって、だれでもが作れる、ほんとうに幅ひろい、自由なものに変わってきた、その点にこそ革命の実体があるのです。だが、「だれでもが作れるものになった」と言っただけでは、まだ不十分です。私はもう一歩これを進めて、これからは、「すべての人が描かなければならない」と主張します。専門家、門外漢、しろうと、くろうとなんて区別は現代芸術にはありません。人間的に生きることに「専門家」がいないと同じように、すべての人が、創造者として、芸術革命に参加するのです。夢物語だと思ってはいけない。すでに、その段階に達しつつあるのです。【p.137】

「芸術は、決意の問題だ」と、前にお話しましが、決意さえすれば、その精神力で技術が支えられる。だから、あなたも今日ただいまから、芸術家になることが可能なのです。【p.224】

古い権威とたたかいつづけながら、孤立無援でいるとき、私はふと絶望的にその背景を思い出すことがあります。個人個人に会ってしたしく話をすると思いのほか純粋で、情熱的に、「やらなくちゃいけない。あなたのような人こと大事なんだ」という。しかし、ほんとうに社会的に、効果的に発言し、力をあわせた人が、いったいあったでしょうか。こちらが公認されるまではおそらく、けっして危険なコトアゲはしないでしょう。きわめて誠実に、そして謙虚に、みんな時機を待っているのです。【p.240】

一九五三年、パリとニューヨークで個展をひらきました。出発するまえ、私はある場所で講演をしたのですが、いろいろ話をしたあとで、聴衆の一人から、「こんどあちらへ行かれて、何を得てこられるでしょうか?」という質問が出ました。「いや、こちらが与えにゆくんです」と、私が返事をしたら、満場がドッと笑いました。私はきわめてマジメに言ったのに、意外にも大笑いされて腹立たしくなりました。外国に行くといえば、何か得てくる、目新しいおみやげを持って帰るだろうと、まったく疑いもしないできめてかかる日本人の根性は、文明開化以来の卑屈な劣等感なのですが、今日の若い人たちは、どうなのでしょう。【p.240】